すーぱーぽんつくちゃん!

とある女医の枕草子

芝浦夕陽

今年、私は讃岐金刀比羅宮へ足を運んだ。念願だったので大変うれしい。

正直、本宮の785段までは汗はかいても体力的余裕があった。しかし奥社である厳魂神社までの583段がつらかった。一人での参拝だったので、自分のペースで上れたのもよかったのだと思う。決して信心深いとはいえない私だが、お守りを買った。

 

しかし私の目的は天狗御守や幸せの黄色いお守りだけではなかった。

讃岐金比羅宮には、高橋由一館があるのだ。

高橋由一。日本最初の洋画家とも呼ばれるが、一般的には「あの『鮭』の人」くらいの認識なのではないだろうか。あるいは『豆腐』の人。

どうしても日本の洋画の祖について考えるとき、黒田清輝などの陰に隠れがちである。だが彼は確実に日本における洋画を語るときに外せない人物なのである。

 

私が高橋由一について認識を改めたのは、『芝浦夕陽』を観てからだ。今回は『芝浦夕陽』について熱く語ろうと思う。

 

芝浦夕陽

 

私が絵画を観て涙が出るほど感動したのは、ヨハネス・フェルメールの『デルフト眺望』と、この『芝浦夕陽』である。(いつかデルフト眺望についても書きたいと思う)

写真でみるとあっさりした印象を受けるかもしれないが、意外に重厚感のある絵画である。色彩ももっと鮮やかに感じる。

この絵に限らず、由一の絵は実物だと意外に圧を感じる絵が多い。絵の具に厚みがあるというのも要因の一つだろう、おそらく地塗り自体が厚いのだと思う。

そして精緻な筆致。筆致がモロに残るところも、油彩画のいいところのひとつだと思う。

手前の舟、縄、藁、どれも表情が違う筆で描かれているが、見事である。遠くに見える舟や人影に温かみを感じるのは、いささか感傷的だろうか。

そして雲もまた特筆すべきであり、同じ画面にあるものなのにきちんと“雲”として認識されるのは高橋由一の筆の巧さなのだと(勝手に)信じている。

 

 

洲崎

同館内に展示されている『洲崎』もそうだが、これもまた素晴らしい絵画である。孤独な、静閑な風景画である。これも厚めの地塗りの上に、薄い絵の具が何層にも重ねられている。

 

この二つの作品、どちらも海辺を描いているが、その表情は大きく異なるものの、遠近感の描かれ方は共通している。

由一は静物画でも必ず遠くのものから描いたというが、遠景での物体と前景での物体、そして省略される中景という描き方や対比が大変効果的である。

遠くにあるもの、近くにあるもの、そしてそれをみる自分、という構図である。

切り取られる風景は日常的なもので、なんとなくバルビゾン派の風景画を思い出すのは高橋の背景を知っているからかもしれないが。

リアリティ、陰影はもちろんのこと、この奥行きは日本画にはみられなかったものであり、逆に言えばその平面構図や陰影のなさなどにゴッホもモネも度肝を抜かれたわけである(ジャポニズム)。

 

留学経験すらない由一だったが、画塾を開いたり、油彩画に必要な物品を日本で作れるように努力したり、それはもう日本における洋画の確立に尽力したのである。そんな中、工部美術学校では西洋美術教育のみを扱っており、日本における洋画の立場は徐々に高まることが期待された。しかし国粋主義に呑み込まれ、油彩画は完全に冷遇されてしまい、開催する画塾も閉鎖してしまった。

油彩画=洋画だった当時、かの岡倉天心フェノロサは日本美術ルネサンスを推進した人物であるが、1887年、由一60歳の時に創立された東京美術学校では洋画科は創設されなかった。洋画は完全に排斥されたのである。

それでも66歳の時には洋画普及の功労が讃えられ、賞勲局から銀盃を授与されている。よかったね、と声をかけてあげたい。

 

さて、私が高橋由一の絵画をこんなに評価する理由は何だろうと考えたときに、なんとなくではあるが明確な理由がひとつ思い浮かぶ。

高橋由一の絵画は、瞬間凍結なのだ。これは短歌にも通ずることで、多くの歌人も同様のことを語っている。

短歌と異なる点は、感情がないことである。由一の絵において、物体は物体、人物は人物として、そのままに切り取られ、描かれているのだ。由一は油彩画を美術として広めようとしたわけではなく、当時白黒だった写真以上に実用的な技術・ツールとして普及させようとしたのである。そこに感情を入れる必要はなかったのだ。

 

『芝浦夕陽』も『洲崎』も、目の当たりにしたときの感情は、誰のものでもなく自分のものである。画家の感情やその題材に影響されないという意味では、数少ない存在である。

こういった心の声を聞くこと、自分の中身と対話することができる絵画というのは、由一にとっては想定外だったかもしれないが、少なくとも私のような人間にはとてもありがたく感じるものである。